内傷と外感の鑑別『内外傷弁惑論』
著者の李東垣とは?
『内外傷弁惑論』の著者・李東垣は35を超えてから医術を学んで歴史に名を残した名医であり、現代でも使われる補中益気湯の創作者である。『内外傷弁惑論』は名前の通り、内傷と外感をどうやって鑑別するかについて書かれた書籍である。だがこの時代の内傷は現代の内傷と少し意味が異なる。現代では七情によって引き起こされる病を内傷というが、『内外傷弁惑論』では中気の虚(もしくは正気の虚)があるもの。さらに場合によってはその虚に乗じて外感病を患うものを内傷としている。
これは作者の李東垣が生きた時代が、感染症が流行していたためこのような傾向があったのだろう。いつの世も適当な医療者というのは多いようでその嘆きから文章は始まっている。
陰陽を弁ずる
現代語訳
なんと深刻なことか。陰陽の証(症状)については、十分に詳しく見極めねばならない。『内経』の論述を広く見渡せば、さまざまな病の変化の源は、すべて過度の喜怒・飲食の乱れ・寒暖の不適・労役による損傷などから生じるという。そもそも元気・谷気・栄気・清気・衛気・生発諸陽上昇の気という六つの気は、すべて飲食が胃に入った後に谷気が上行するものであり、いずれも「胃気」の異名であって、実は同じものである。すでに脾胃が損傷すれば中気は不足し、中気が不足すれば六腑の陽気はすべて外に絶える。だから経文に「五臓の気がすでに外に絶えているとは、六腑の元気の病である」と説かれているのである。気が傷つけば臓は病となり、臓が病めば身体にその兆しが現れる。つまり五臓六腑の真気がいずれも不足しているのだ。ただ陰火だけが独り盛んに燃え上がり、陽の部分に乗じてしまうため、栄衛の防御が失われ、諸々の病が起こる。こうした変化はすべて中気不足によって生じるのであり、そこから病状が発していくわけである。そのうえ、脾胃は労役により病を受けやすく、飲食もまた乱れがちである。病が長く続いた後、用事がひと段落し心が安まると、今度は飽食に陥りすぎて病が大きく起こるようになる。概して、外から風寒を受ける場合や六淫邪気が侵入する場合は「有余の病」であり、瀉法を用いるべきで、補法を用いるべきではない。一方、飲食の乱れによる中気不足の病は「不足の病」であり、補法を用いるべきで、瀉法を用いてはならない。しかし世の医者たちは皆、飲食の失調や労役の損傷によって中気が不足している病証を、外感風寒や有余の邪気による病と誤って判断し、さらに表(外側)を大きく瀉してしまう。すると栄衛の気は外へ絶たれてしまい、その結果、十日も経たずして死に至ることになるのだ。まさに「わずかな差が千里の誤りとなる」と言うように、これを詳しく弁別しないわけにはいかない。
『陰陽応象論』にはこうある。「天の邪気を受けると五臓を害する」。これは八益の邪であり、風邪が筋骨を傷つけるというのである。風邪は上から受け、風は筋を傷つけ、寒は骨を傷つける。これは形ある物質が病を受けるものであり、下焦に関わる肝腎がこれに当たる。肝腎は地の気である。『難経』によれば、「肝腎の気がすでに内に絶えているのは、肝は筋を司り、腎は骨を司るがゆえに、もし風邪を受ければ筋骨が疼痛し、筋骨が絶えれば肝と腎の本源もまた絶える。これこそ有余の証である」という。 また「水穀の寒熱を受けると六腑を害する。これが七損の病、すなわち内傷(飲食による損傷)である」ともある。さらに『黄帝針経』によれば、「ちょうど飲食が不摂生であり、労役による損傷があると、湿は下から受ける。すなわち脾胃の気が不足して逆に下行し、極まれば衝脈の火が逆上する」とある。これは形あるものではない“元気”が損なわれる病であり、上焦(心肺)にかかわる。心肺は天の気に属する。ゆえに『難経』は「心肺の気がすでに外へ絶えているのは、心は栄(=血)を主り、肺は衛(=元気)を主るからだ」と説くのである。栄とは血であり、脈は血の府、神の宿るところである。また衛とは元気・“七神”の別名であり、全身を守護し、皮毛のあいだに存在する。肺が絶えれば、まず皮毛が先に絶え、神が依るところを失う。だから内傷(飲食)によっても風寒を悪むようになり、栄衛が守りを失い、皮膚のあいだに陽気がなくなって風寒に耐えられなくなるのである。皮毛が絶えれば心肺の本源もまた絶える。つまり胃気が上昇せず、元気が生まれないために心肺を養うことができず、結果として不足の証になるのである。考えてみるに、病を受ける人の多くは、飲食の乱れや労役による損傷があって、飽食による内傷を負う者が非常に多い。外傷を負う者も同じくあるが、世間の人々はこれを知らず、中気不足の証を外感の風寒・表実の証と見なしてしまい、逆に心肺を瀉してしまうのである。こうして外の力をさらに絶ってしまうから、どうして死を免れようか。古人が「実を実とし、虚を虚とせずに治療するのは医者に殺されるようなものだ」と言ったのはこのことである。もしそうでないというなら、どうか世の人々が実際に耳で聞き目で見たことに照らして証明してほしい。
思い起こせば壬辰年に改元し、京師(都)が戒厳を敷き、三月下旬まで半月間敵に取り囲まれたあとに包囲が解かれた。すると都の人々のうち、病にかからなかった者はほとんどいなかった。そして、病にかかって死んだ者が相次いで絶えることがなく、都の門は十二か所あり、どの門からも多い日には二千人、少なくても一千人の遺体が運び出された。そのような日がほぼ三か月続いた。ここにいる百万人が、どうして皆風寒の外傷を被って死んだなどということがあろうか。おおよそ、城に包囲されているときには、飲食は節度がなく、労役による損傷もあったことなど言うまでもない。朝は飢え、夕方に飽食し、起居の時刻もままならず、寒暖の調整もできず、二、三か月も過ごしていれば、すでに胃気は長く損なわれている。そこへ一気に飽食しすぎると、それが引き金となって病を招き、加えて治療も適切でなければ、死はもはや疑いようもない。これは大梁(開封)に限った話ではなく、遠く貞祐・興定の時代、たとえば東平や太原、あるいは鳳翔でも、包囲が解かれたあとに病に倒れて死ぬことが同様に起こった。私が大梁で実際に見聞きしたところでは、表を発散しようとして発汗させたり、巴豆(下剤)を使ったり、承気湯で下したりした者がいて、しばらくすると結胸や黄疸に変わり、さらに陷胸湯や陷胸丸、茵陳湯で下す治療をされて、死ななかった例はなかった。もともとこれらは「傷寒」ではないのに、誤った治療によって変じて真の傷寒に似た証を呈し、最終的に薬が命取りとなってしまったのだ。過去を取り戻すことはできないが、これから先のことならばまだ間に合うだろう。そこで私の平生の臨床経験に基づく効果をもとに、『内外傷弁惑論』一編を書き、先人の遺した論説を明らかにし、近年の病の変化を列挙した。おそらく同じ志を持つ人が、うまく要点を見極め、類推を広げていけば、後の人々が無益に死なずに済むだろう。浅学による冒瀆の罪は、いったいどこへ逃れられようか。
原文
弁陰陽
日甚哉!陰陽之証、不可不詳也。遍観『内経』中所説、変化百病、其源皆由喜怒過度、飲食失節、寒温不適、労役所傷而然。夫元気、穀気、栄気、清気、衛気、生発諸陽上昇之気、此六者、皆飲食入胃、穀気上行、胃気之異名、其実一也。既脾胃有傷、則中気不足、中気不足、則六腑陽気皆絶于外、故経言五臓之気已絶于外者、是六腑之元気病也。気傷臓乃病、臓病則形乃応、是五臓六腑真気皆不足也。惟陰火独旺、上乗陽分、故栄衛失守、諸病生焉。其中変化、皆由中気不足、乃能生発耳。後有脾胃以受労役之疾、飲食又復失節、耽病日久、事息心安、飽食太甚、病乃大作。概其外傷風寒、六淫客邪、皆有余之病、当瀉不当補;飲食失節、中気不足之病、当補不当瀉。挙世医者、皆以飲食失節、労役所傷、中気不足、当補之証、認作外感風寒、有余客邪之病、重瀉其表、使栄衛之気外絶、其死只在旬日之間。所謂差之毫釐、謬以千里、可不詳弁乎?
按『陰陽応象論』云:天之邪気、感則害人五臓』是八益之邪、乃風邪傷人筋骨。風従上受之、風傷筋、寒傷骨、蓋有形質之物受病也、系在下焦、肝腎是也。肝腎者、地之気。『難経』解云:肝腎之気、已絶于内、以其肝主筋、腎主骨、故風邪感則筋骨疼痛、筋骨之絶、則腎肝之本亦絶矣、乃有余之証也。!又云:水穀之寒熱、感則害人六腑、是七損之病、乃内傷飲食也。!『黄帝針経』解云:適飲食不節、労役所傷、湿従下受之。謂脾胃之気不足、而反下行、極則衝脈之火逆而上。是無形質之元気受病也、系在上焦心肺是也。心肺者、天之気。故『難経』解云:心肺之気已絶于外、以其心主脈、肺主衛。栄者血也、脈者血之府、神之所居也;衛者、元気七神之別名、衛護周身、在于皮毛之間也。肺絶則皮毛先絶、神無所依、故内傷飲食、則亦悪風寒、是栄衛失守、皮膚間無陽以滋養、不能任風寒也。皮毛之絶、則心肺之本亦絶矣、蓋胃気不昇、元気不生、無以滋養心肺、乃不足之証也。計受病之人、飲食失節、労役所傷、因而飽食内傷者極多、外傷者同而有之。世俗不知、往往将元気不足之証、便作外傷風寒表実之証、而反瀉心肺、是重絶其表也、安得不死乎?古人所謂実実虚虚、医殺之耳。若日不然、請以衆人之耳聞目見者証之。
向者壬辰改元、京師戒厳、逮三月下旬、受敵者凡半月、解囲之後、都人之不受病者、万無一二、既病而死者、継踵而不絶、都門十有二所、毎日各門所送、多者二千、少者不下一千、似此者幾三月、此百万人豈俱感風寒外傷者耶?大抵人在囲城中、飲食不節、及労役所傷、不待言而知。由其朝飢暮飽、起居不時、寒温失所、動経三両月、胃気虧之久矣、一旦飽食太過、感而傷人、而又調治失宜、其死也無疑矣。非惟大梁為然、遠在貞祐、興定間、如東平、如太原、如風翔、解囲之後、病傷而死、無不然者。余在大梁、凡所親見、有表発者、有以巴豆推之者、有以承気湯下之者、俄而変結胸、発黄、又以陷胸湯、丸及茵陳湯下之、無不死者。蓋初非傷寒、以調治差誤、変而似真傷寒之証、皆薬之罪也。往者不可追、来者猶可及。輒以平生已試之効、著『内外傷弁惑論』一篇、推明前哲之余論、歴挙近世之変故、庶幾同志者、審其或中、触類而長之、免後人之横天耳!僭易之罪、将何所逃乎?